歌というのはその時代の空気を一瞬にして思い出させるものです。まして、駆け落ちという人生の岐路に立つような出来事であればなおさらですね。最終的にはご家族と和解できて本当によかったです。
「カーペンターズを聴きながら」
神馬 せつをさん(64才、石川県在住)
一人の女性を真剣に愛するまでは、第二の人生の出発点となる新婚旅行がまさか「駆け落ち」になるとは思いもしなかった。
現在なら親の許しがなくても「同棲」という手を使ったり、「出来ちゃった婚」という事後承諾の手もあろうが、昭和四十年代の日本は、まだ封建制度の名残があり、結婚することは「男女の絆」より「家対家の絆」が優先される時代だった。
しかし、長男と長女としての一家の期待を背負い、宝もののように育てられたことも事実だった。
その生まれ育った島を離れるには、小さな港から定期船に乗るしかなかった。
待合室に流れるカーペンターズの「涙の乗車券」を聞きながら、「きっと幸せにするから」ということしか言えず、彼女も私の言葉を信じるしかなく、心細かったに違いない。 お互いに他人のふりをして隠れるように船に乗り、複雑な思いで入り江を通り過ぎるころ、岬に立つ二人の人影が見えた。
一人は彼女の母親で、もう一人は私の母親だった。
駆け落ちに気付いていたが、頑固に反対する父親には伝えられなかったことを、ずっと後になって知らされた。
母親に詫びる気持ちと責任感で、二人とも身震いしていたことが、まるで昨日のように思い出される。
その後もヒット曲を連発するカーペンターズに励まされながら、大都会の片隅で必死に生き抜き、二人目の孫が出来たころにようやく許されて帰郷することが出来たのも、母親の尽力の賜物だった。
墓参に訪れるたびに、親不孝そのものだった駆け落ち新婚旅行のことを詫びながら、もう一組の恩人の名曲である「イエスタデイ・ワンス・モア」を聴いている。
その他の応募作品
歌に限らず、小説にまつわる思い出や異国の地で暮らす日本人の方の思い出の品など
「記憶」にまつわるエピソードをご紹介します。
生まれ変わったら新婚旅行を
上野有治さん(78才、神戸市在住)
戦前の私の小学校時代は男女別組であったが、女組に作文の上手なM子が居た。
戦争中は、戦争に行っている兵隊さんに慰問文を書かされた。地域や県の「慰問文競作大会」に、私とM子は、よく入賞したが、私の方が上位のことが多かった。
ある時に、私が出さなかった競作大会に、M子が「銀賞」に入賞したので、私は、廊下で会ったM子に「おめでとう」と言うと、なぜか冷たい対応である。それからは、何を話しても、卒業式まで冷たい態度であった。
M子は、父親の転勤で卒業式の翌日に神戸へ転宅したが、見送りに行った私に「上野君と一緒に綴り方を書きたかった」と言った。
10年くらいしてM子から「『赤毛のアン』のアンは、男児のギルバートに関心があるのに、ギルバートに話しかけられても、勉強に追いつこうとの競争心から冷たい態度は、私が上野君に冷たかったのと同じです」と、手紙と文庫本の『赤毛のアン』を送って来た。
女性は「小学校時代に過ごした所を故郷と思うもの」と言われているように、M子が60歳の時に、ご主人が亡くなって、田舎に住むようになった。近くに小学校時代の同級生が多く居るので寂しくはないのである。
私は、月に1回は墓参のために田舎へ帰っているが、M子が田舎に住むようになって、私と会うようになった。気安くなると、「赤毛のアンは、ギルバートと結婚したが、私は上野君と結婚できなかったけれど、頭の良い上野君の子どもが生みたかった。この年になると子供は生めないが、体は現役です」と、うれしい危険なことを言い出すのである。
M子は4年前に軽い脳梗塞で「養護老人ホーム」へ入った。そして一昨年に亡くなったが、枕の下から「私の葬式には上野君に小学校の弔辞を読んでもらってください。それを持って希望の多い新婚旅行のつもりで旅立ちます」の手紙が出て来た。亡くなるまで私を思っていたのはうれしいことである。
望郷の涙
ペンネーム早川祥一郎さん(48才、大阪府在住)
「アナタタチ、ハネムーナー?」
十八年前、常夏の島ハワイに新婚旅行で訪れていた私達夫婦は一人の日系人と思われる上品な老女に声をかけられた。ホノルル市内中心部から少し外れた住宅街。とても大きな家の広い庭に地元の人々がデッドマウスツリーと呼ぶ珍しい木を見つけ、和風の生垣の外からカメラを向けていた時だった。
生垣の中でガーデニングをされていた老女は私達が新婚の日本人だとわかると目を輝かせて庭に出している白いテーブルを指さし、お茶でもいかが?と招待してくれたのだった。
手作りのクッキーとダージリンティを頂きながら老女と日本語と英語を駆使してコミュニケーションをとる。太平洋戦争にうまれ、コーヒー農園で働き通しだった戦中、敗戦国民の中間層だと戦前より酷な迫害を受けた戦後、そして勤勉に働いてやっと自分の農園を持ち、気がつけば夫は先立ったが孫八人に囲まれた現在、と楽しそうに身の上を語った。
「さぁ。次は貴方達。日本の此方から?」
私達が今は京都に住んでいます。と話すと老女の瞳に見るみる涙が宿り、声を詰まらせた。
「私の…おトさん…京都で生まれた。京都…日本の、日本のハート。フルサト、ね。」 聞けば老女の父親は戦中、まだ米国籍取得できず、一度日本に帰国して特攻隊志願、岐阜県の基地から出撃したとのことだった。
老女は家から「悠久之大義」と書かれた手拭いを持ってきてくれた。父親の形見。節くれだった両手で愛おしそうに何度も撫でた。
「今、日本、平和。これ、素晴らしいよ。」
そうだ、戦争で散華された犠牲者のおかげで今日私達日本人は平和と繁栄を享受できる。新婚旅行で訪れたハワイの地でその事実を私達はあらためて噛みしめた。
辞去する時妻が「本当に気候が良くてハワイは素晴らしい所ですね。」と告げると老女は「一年中、夏。桜も、雪もない。退屈。」といい、これには三人で大笑いだった。