入賞作品

お子さんが無事生まれてよかった! ひ孫の顔が見れる日をとても楽しみにしているのではないでしょうか。遠くで離れて暮らしているとなおさら、家族のことを思うことでしょう。これからもご家族仲良く暮らしてください。

「三人一緒の新婚旅行」

瘧師 祐子さん(28才、北海道在住)

私達夫婦は、三年前に結婚をした。新婚旅行として選んだ場所では、大阪。大阪には、主人のお婆ちゃんが住んでおり、主人の出身地でもあった。親戚への挨拶も兼ねてと思った。

大阪・梅田
(写真はイメージです)

新婚旅行の期間は四泊五日。とても短いけれど、これが主人が調整して休日をとれた限界だった。移動時間は長く、やっと大阪に着いたと思ってもお婆ちゃんの家までは電車を乗り継いで行かなければならなかった。

初めてお婆ちゃんに会った時、主人が凄く大切にされてることが分かった。幼少期だった頃の話をして何枚も写真を見せてくれた。

そして義母の妹さんにも会った。とてもよくしてくれて、神戸にも連れていってくれた。

結婚式を考えていた私達にウェディングドレスを無料で試着できる所に連れて行ってくれたり、夜景の綺麗な場所で食事もした。

三日目、この日は寝たきりになっているお爺ちゃんに会いに行った。寝たきりでも主人が話しかけるとわかった様子で手を動かしてくれて感動をした。

この日、私は病院内で急に吐き気を催して化粧室に駆け込んだ。その後も何度か具合が悪くなり、もしかするとと思って検査をすると妊娠が発覚した。

主人も私も驚きの色を隠せなかった。すぐに義母に連絡をし、お婆ちゃんとお爺ちゃんにも知らせた。ひ孫ができるのねと、凄く喜んでくれた。この新婚旅行は三人でしたものなんだと考えると私は嬉しくなった。

旅行から帰り、病院に行くと正式に妊娠が発覚した。お腹の中の子は、無事にその後産まれた。結婚式も三人一緒に挙げる事ができた。今、私達は、今度は、ひ孫の可愛い姿を見せに旅行に行こうとまた計画中だ。

また、大阪の地に行き、私達がお婆ちゃんお爺ちゃんへ孝行できる日を楽しみにしている。

その他の応募作品

家族を思う気持ち、家族から思われる暖かさなど、「絆」を感じるエピソードをご紹介します。

宿でもらった人生の指針

岡部晋一さん(74才、神奈川県在住)

私達が結婚した昭和四十年代、新婚旅行の行き先の主流は宮崎県の日南海岸だった。しかし、私達には金銭的な余裕がなく、静岡県の西伊豆方面に新婚旅行に行くことにした。しかも、宿泊先は、国民宿舎だった。修善寺駅から乗ったバスが低い山を越えると、眼下に小さな岬に抱かれた一幅の油絵のような戸田の海が出迎えてくれた。

私達が宿泊した国民宿舎「戸田荘」には一つのエピソードがあることを旅行ガイドで知っていた。ある年、戸田港から出港した漁船が遭難し多くの漁船員が犠牲になった。そして、戸田村には多くの夫を亡くした母子家庭が残った。村役場はその対策として何人かの婦人達を「戸田荘」の職員として採用した。

宿の夕食の後、食堂の一人のおばさんにその話を聞いてみたら、そのおばさんが遭難漁船員の夫人だった。今でも、海に向かって「おとうちゃん、子供が中学生になったよー」等、子供の成長を報告するのだそうだ。

おばさんは、私達が新婚旅行中だと言うと、「家族はどんなことがあっても家庭をしっかり守り、子供たちを責任もって育てることが親の責任であり、それがお世話になった社会へのご恩返しよ」とおっしゃった。

このおばさんの話は、新しい家庭を築きあげようとする私達への最高の贈物だった。 私達は、翌朝、戸田から土肥へのバスに乗った。宿舎の玄関で見送ってくれたおばさんの笑顔は、太陽のように輝いて見えた。 戸田の海も美しかった。それにも増して、幕末には遭難したロシア船を助け、今も村人同志助け合って生きている戸田村の人々の深い絆への感動が心の土産になった。

私達夫婦にとっては、家族や地域の絆の大切さを学んだ有意義な新婚旅行だった。

早くしてよー

柳徳子さん(73才、栃木県在住)

「早くしてよーおとうさん飛行機は、タクシーとちがって待ってくれないのよー。」と娘の玄関での叫び。

古風な夫は、テレビドラマのように、手をついて、「おとうさん、お世話になりました。」なんて、夢をみていたのでしょうが……

夫と娘は、前日までもめていた。「飛行機は嫌いだ、鉄が空に浮くわけない。」まで言った夫。「バージンロードはおとうさんが、婿殿にバトンタッチの主役なのに。」涙の力説。

娘はフォーマル店で、少し裾が変色したウェディングドレスを特別一万円で買い、バックにつめこみ、ハワイの教会に予約実行。

カタコトの牧師の司式、「昔、青木功がここで結婚。離婚の少ない式場です。」と。変色もわからないし、遠慮なく裾をひきづって道路も横断。ライスシャワーの祝福。

ホテルに入ったら、枕もとに「おとうさんきてくれてありがとう。わがまま言ってごめんなさい。」のメモ。夫は鼻をすすり上た。

私の新婚旅行

美濃部八千江さん(76才、大阪府在住)

もう半世紀も越えたでしょうか。それは我が家にとっては、天地をゆるがすような私の結婚であった。そしてその新婚旅行でもあった。

ガタン・コトンという列車のきしみ。青森から大阪までの三十何時間という鈍行列車の長旅。四月初旬の気車の中はまだ肌寒く、おしゃれのつもりで誂えたスカートが身にこたえた。そのため、途中から頻繁にトイレに立つようになった。一緒にいる夫に恥ずかしかったが、これだけは、何しようもない。

夫は、私の許へ結婚申込みに来たお陰でお金を使い果しての鈍行列車。それでも一大決心の旅費だったのだろう。

私達は文芸雑誌で知り合った。全国を巡っての文芸誌。私は、肺の病み上がりの半端人間。夫は軍需工場で怪我をして片脚が無い。

(選りにも選って何もそんな人と)と母は泣いたが、私はそれでも良いと云った。

父は子連れの再婚、母は初婚であったが、継子のなつかない苦学の結婚であった。

そんな中で育った私は、母のような結婚は絶対にしたくないと思った。私二十三歳。夫三十五歳の時であった。

夫は大阪で中小企業で働く鉄工職人であった。そして現在は、弟夫婦の家に間借りして、私より四歳年上の妹と二人でくらしていた。

その妹は、不具の兄のため、兄の面倒を見るつもりと、夫の手紙には書いたっけ。

私は、ようやく病も癒え、家業のりんご園で働ていた。

奥羽本線、東北線。そして関西線と続く長旅で、すっかり疲れ果ててしまった私は、夫の住んでる家に着いた時には、高い熱を出してしまっていた。

その為、夫の家族には、多大な苦労をかけてしまった事は、今でも忘れる事は出来ない。

その夫も、弟も今はなく、兄思いだった妹は、その後、やさしい夫にめぐり会い、今も建在で、やさしい家族に囲まれてくらしている事が何よりも私の喜びである。

エアーズロック頂上での約束

林秀樹さん(52才、神奈川県在住)

新婚旅行はオーストラリアのエアーズロック――お互いの思いが、偶然にもばっちり一致し、実現した。行く先を決定する前段に話題が出てたわけでもないし、なぜそうなったか今だによくわからない。

成田からシドニー、それからブリズベンを経由しアリススプリングス入り。翌日、バスで一路、世界のへそと呼ばれる巨大な一枚岩を目指す。日本では見ることの出来ない景色に目を奪われ、気持ちが高ぶっていく。遠くに見えていたエアーズロックが、大きさをぐんぐん増していき到着。麓から見上げると、改めてエアーズロックの威容に圧倒された

ガイドの説明を聞くのもそこそこに、妻と手を携え登り始める。多少大袈裟かもと思ったが、トレッキングシューズで足回りを固め、日焼け止めにサングラス、ペットボトルを持参し、往復四時間の登山に用意万端で臨んだ。

登山道は、急坂が多く滑りやすかった。鎖に掴まってよじ登るような道が三分の一以上あり、決して侮れない道行きだった。息を荒くしている妻の手を引っ張り揚げながら登り切る。頂上だ!遂に来た!感無量――。

夫婦のライフワークを一つ成し遂げたという感慨に浸りながら、三百六十度、水平線まで続く赤茶けた大地を飽くことなく眺めた。

その時、妻と約束した――子供たちと一緒に、また来よう。孫が出来たら、親子三世代でまた来よう――あれから二十四年。あっという間だった。長女は二十二、ダンサーになった。次女は大学、長男は高校に通う。毎年、エアーズロックに行こうという旅行話が持ち上がるが、なかなか実現できずにいる。

頂上に立つ夫婦の写真は、引き伸ばして居間に飾ってある。若かった二人が、セピア色がかった写真の中で微笑んでる。先日、その写真をぼんやり眺めていたら、次回はきっと、孫と一緒ね、そう妻が呟いた。私は頷きながら、孫と一緒に立つ家族の姿を夢想した。



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