親元を旅立つその日に、お父さんの想いがわかり、熱い感情がわき上がってきた瞬間がよく伝わってきました。そばにいると家族の存在が煩わしく感じてしまいますが、離れてみると、その大切さやありがたさがじみじみわかりますね。
「新婚旅行の朝に」
青塚 美恵子さん(53才、千葉県在住)
新幹線の出発を知らせる放送の中、なんとか私たちは車内に滑り込んだ。新婚旅行くらい、ゆとりを持って行動すればよいのだが、若い頃にありがちな時間のルーズさで、たいてい尻に火がついた状態で行動することが多かった。
チケットの番号を見ながら、ようやく席に着いてホッとした時、コンコンと窓をたたく音に気づいた。外に目をやると、父の笑顔があった。
「えっ!?」と思った瞬間、電車は動き出し、手を振る父の姿はあっという間に小さくなっていった。
厳しいわけではないが子煩悩という言葉には遠い、無口な父であった。朝から東京駅にまでわざわざ見送りに来るなんて、微塵も考えていなかった。
父は酒もあまり飲まないので、寄り道をすることもなく毎日ほぼ定時に帰ってきていた。家に帰ったからといって、家族と会話をするわけでもなく、黙ってテレビを見るか、本を読んでいるかだった。
大学の頃、バイト先で主婦の人とおしゃべりをしていた時に、どういう話の流れか、そんな父を話題にしたことがあった。
「趣味も特になく、毎日毎日、定時に帰ってくるけど、何が楽しいのかわからない」
父に対して非難とも同情とも言えない気持ちでこぼした私に、その主婦は「何言っているの! あなたたちの成長を楽しみにしているのに決まってるじゃない」と少し怒ったように言った。
私たちの成長を楽しみにしている?私は思いがけない言葉にびっくりした。「そうか」とすんなり合点はいかなかったが、父に対してちょっぴり申し訳ない気持ちになったことは憶えている。
窓の外に父の姿を見つけた瞬間、その時の思いがものすごい勢いでよみがえってきた。ありがとうという感謝なのか、全然わかっていなくて、ごめんという申し訳なさなのか、自分でもわからない感情が噴き出してきて、しばらく涙が止まらなくなってしまった。 今、自分が親になって、父の気持ちがよくわかる。
その他の応募作品
家族を思う気持ち、家族から思われる暖かさなど、
「絆」を感じるエピソードをご紹介します。
妹の新婚旅行
早瀬結子さん(30歳、東京都)
妹は、海外挙式を兼ねた新婚旅行に家族を招待してくれた。グアムのホテルはプールが充実しており、少し歩けばプライベートビーチがあった。
彼女たちは、挙式が終わった後、すぐにプールプログラムに参加し帰国までの二日間、朝から晩までプールにいた。彼女たちの邪魔をしてはいけないと、母と私はバスで観光し買い物をしたりして過ごした。グアムらしいお土産は何がいいかと迷い、今度はいつ来るか判らないからと、沢山写真を撮った。
最終日、グアムの免税店でお土産を買おうとしていた彼女達は、早朝の空港で店が空いていないと打ちのめされる。仕事関係のお土産に、自分たちのお土産がない。私はこんな事もあろうかと沢山買っていたので妹に全部それを譲った。
他人の買ったお土産で満足するのかなと思ったが、意外に満足してくれた。帰国して挙式の写真と観光地の写真を額に入れてプレゼントした。日焼けした彼女達の幸せそうな笑顔がそこにある。
「月の沙漠♪」と新婚旅行
澤井寛治さん(67才、京都府在住)
「月の沙漠を はるばると 旅の駱駝が行きました……先の鞍には王子様 後の鞍にはお姫様……♪」企業戦士だった私が、子供の頃より聞き慣れ親しんだ歌である。
思えば父は兼業農家九人兄弟の長男で、早朝から夜遅くまで働いた。貧しい生活で僅かな二級酒を晩酌にして「月の沙漠」を口ずさみながら♪うたた寝するのが日課であった。 昭和四十二年、私は同期入行の彼女に一目惚れした。しかし二人が実質跡取り同士で「将来、両家のお墓を守らねば成らず、私に負担が掛かる」と母が結婚に反対した。
それでも八年間交際を続け、互いに尊敬し信頼し合う私達を、母も認め結婚に賛成した。
昭和五十年、新婚旅行は人気のあった九州に行った。阿蘇草千里は私達を祝福するかのように快晴で、青い空の下、緑の草原が果てしなく広がっていた。二人とも生まれて初めての乗馬をした。最初は係りの人に付き添われたが直ぐに手綱を渡された。各々老いた栗毛の牝馬に乗り手綱をしっかり握りとぼとぼと草原の一角を回った。馬上は想像以上に高かったけれど怖いというより楽しさ一杯であった。広い草原に私達はまるで王子様とお姫様であった。新婚生活の門出にあたり、これからの新しい人生を思い、自然に「月の沙漠」を口ずさんだ♪。新妻に聞こえたか否かわからなかったがにっこり微笑み手を振っていた。
結婚から三十四年経ち会社人間の私が親孝行の出来ぬ間に父母は遠くに旅立った。妻は父母を長年看病したものの自分の還暦旅行の計画時に「癌宣告」を受けた。しかし子や孫ができ夫婦の絆・家族の絆は強く深い。家族皆で妻の病気を克服し五十年の金婚式を挙げ思い出の新婚旅行の地へ感謝旅行することを目標に健康で幸せな日々が続く事を願っている。
人生の長い旅のつらい時や悲しい時、楽しい時もいつも心の中から歌が聞こえてくる♪。父が口ずさみ、私も新婚旅行で口ずさんだ「月の沙漠」でいつも無意識に口ずさんでいる。
我が家の居間のTV台には、馬上の二人が微笑んでいる。写真が、今なお新婚旅行当時を語るかのように飾ってある。
旅行にオプション付き
今野芳彦さん(65才、秋田県在住)
四十三年前、私は二十三歳で結婚した。
新婚旅行は彼女の両親がプレゼントしてくれて、南紀白浜のホテル、パンフレットなど無く、良いホテルだとだけ知らされていた。
六十五歳の今、脳が錆び付いて、巡った観光地、豪華な食事などの記憶は薄いけれど、鮮明に覚えているのは、通された部屋があまりにも広過ぎて困惑したことだ。
寛いで食事をする部屋に寝室、その他に二部屋あり、使わなければ損と部屋を全部開放して枕投げなどをしたが、盛りあがらず疲れだけが残り白けた。
その後、紙にこの間取りを書いて二人で改装、「ここは二人の寝室」「ここは子供部屋で揺り籠を置きたいね」「怪我をしないように床には厚めのカーペットが必要だな」「赤ちゃんを四六時中見ていられる用に、キッチンはここで、冷蔵庫、テーブルはこの辺ね」と夢に見る一軒家の設計図に書き加えた。
帰れば、結婚前から一緒に住んで居る狭い部屋が蒸し風呂状態で待っている。
家族がハネムーンベイビーを期待しているので、その努めだけは果たしたつもりだ。
旅行を終えて帰ると、駅に彼女の両親が車で迎えに来てくれて、土産話もあるのでそのまま彼女の家へ行く。玄関先で腰が抜けるくらい驚いた。見慣れた靴が二足、間違いなく私のだ。
「荷物は全部二階に運んでおいたから、ゆっくり整理して」と彼女のお母さんが言う。「一年も一緒に過ごしたんだし、アパートは解約しておいたからね、これからは四人家族だなあ」とお父さん。これが新婚旅行にオプションとして付いていたとは、知らぬは私だけ、これって、もしかして婿入りなのか。
何だかんだと同居、こんな思い出も、よき両親、家族に恵まれてこそ、今も感謝している。
わたしの新婚旅行
藤田哲夫さん(愛媛県在住)
昭和四十六年は激動の年だった。ニクソン声明で、急激な円の切り上げになった年である。為替レートは、一ドル三百六十円から一挙に三百八円に急騰した。わたしが結婚したのは、その年の十一月だった。
輸出関係の企業に不況の波が押し寄せてきた。わたしが務めていた会社は、造船関係だったので円高の影響をもろに受け、深刻な経営状態になりかけていた。巷間では人員削減の噂が流れていた。
元来、賭け事が好きだったわたしは、マージャンやパチンコなどで負けが込み、貯金を使い果たしていた。結婚資金にも手をつけていた。婚約者に資金不足を告げないで、挙式を延ばすことを相談したが拒否された。
親族等に挙式日を報せていたからだ。私の親に資金不足のことを話す勇気がないまま、挙式が迫ってきた。結納と旅行費を支払うと、五千円しか残らない。やむを得ず、挙式費用だけは親に泣きついて出してもらった。
彼女と一緒に姉の家に挨拶に行った。姉は、婚約指輪を嵌めてない彼女を見て訝った。彼女に内緒だよ、と言って、指輪代を貸してくれた。式の一週間前だった。
「小遣い無しで旅行に行くつもりか?」
弟は、姉から聴いたと言い、五万円を融通してくれた。親兄弟には頭が上がらなかった。
当時、新婚旅行の定番は、新幹線と相場が決まっていた。旅行代理店で料金を訊いて尻込みした。手持ちの予算をオーバーしている。開通して七年目の東京・新大阪の運賃は、わたしの予算に合わない。高すぎると思った。
行きは新幹線を使ったが、帰りは在来の急行電車にした。妻は、車中ほどんど寡黙で口をきいてくれなかった。
結婚して二十八年後、娘の結婚式があり、海外へ新婚旅行に行くのを見送りに行った。わたしたちの旅行のときの光景が、セピア色のなかでよみがえってきた。
ドンピシャ、正解
たまきくゆういちさん(72才、神戸市在住)
「父さん、うちら所帯持って三年に、なるけど商売、商売に追われて、よう考えたら新婚旅行まだしてなかったね」ある日、突然、女房がやんわりと言ってきた。そう言われればそうやったな。「よっしゃ、判った。お前にすべて任せるから行きたい所言ってや。その問いに対して女房から意外な答えが返ってきた。
先祖祭りも兼ねて私の生まれ故郷に行かせて。さりげなく言った女房の行き先。これが都会育ちの私にとってはとんでもなく手強い新婚旅行となった。新宮、熊野川の上流をめざすウォータージェット船、ここまでは何ともおおらかなコースであった。
下船してから待ち受けていたものはトテトテ荷馬車である。女房の親類に当たる山人達の気遣いあふれるお迎え馬車である。木もれ陽の中、くねくね山道、馬車にゆられながらのひと時は私をすっかり童心に戻らせてくれたが、同時にお尻コチンコチン痛々の旅でもあった。体のバランスを保ちながら、大いにこれでもかと、ゆさぶられながら峠をめざした。
峠に着くと、茶店があり、用意されたソバ、草餅、お茶が、はるばるよう来たのおで出された。言葉そのものは、ぶっきらぼう、あっけらかんだったが余りに心温まる素朴な持てなしに感激した私は新宮駅前で買ったマグロの造りを、その場でお返しにと皆んなに振るまい、ぐいぐい酒くみ交わした。
女房にとってはこの地に眠る爺と婆は命の恩人であった。幼い頃、大家族ゆえ、口べらしのためにこの地に預けられて育ったからだ。小学校時代、分校をめざす山道で狐、狸、ウザギ、リスなどに出会うのはざらであったそうな。
「父さんのお陰で念願かなって夢によく見たこの地へ立てたこと、本当に有難うね。涙目になって心うるませる女房を目の前にした時、手強いけれど心ほのぼの新婚、遅まき旅行、まさにドンピシャ・正解の気がした。先祖祭りそのものもりんとした張りつめた空気の中でおごそかに行われた。
何んの派手さもないが乙(おつ)な味の旅行であった。